「勉強の遅れ」ケアより、大切じゃないかと思うこと。

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2020年6月2日 火曜日

「勉強の遅れ」ケアより、大切じゃないかと思うこと。

こんにちは。
子供たちのアレルギーが食事で治りました!
いまも三人育児に奮闘中の佐々木愛です。

 

先日、一足先に非常事態宣言が明けた地域の読者さんから、こんなメールをもらっていた。
 
「学校が始まったのはいいんだけど、
毎日朝から下校まで、国語と算数の繰り返しで、子どもが疲れ切っているの。
体育とか図工とかの授業はぜんぜんやってくれないよ!」
 

 
ひいー、まじで~(゜o゜)
 
で、東京在住の私は、昨日になって、子供の時間割をびくびく見たのだけど、
さいわい、体育とか学活とかの時間もあって、ある程度ほっとした、が、
 
気になっていたことを子どもに聞いてみた、
「ねえ、この学活の時間って、コロナについての授業だった?」
 
「ちがうよ。ふつうの学活」
 
「コロナについての授業とか、お話はあった?」
 
「んー、ない」

 
これが、すごく残念だ。
 
もちろん、カリキュラムを消化することは大切だと思う。受験生もいるだろうし。
私も塾講師をしていたから、それはわかる、
 
わかるのだけど。
 
 
いま、社会はかつてないほどの勢いで変わろうとしている。
 
学校が、やっともどってきた「通常」を最上のものとして、
子供たちの頭の中も「通常」まで強引に引き戻そうと頑張っても、
その「通常」が、今後も末永く維持されるという見通しは、もはやたよりない。
 
私たちにとって移動が便利な世界は、ウィルスにとってもそうなのだと、コロナは教えてくれた。
 
コロナがこのまま収束するとも限らないし、
そもそもコロナは始まりで、今度はべつの、感染したらもっと致死率が高いウィルスが上陸するかもしれない。
人間が開発を続ける限り未知のウィルスに出会う危険は避けられないのだから。
 
社会は、そんな未来への対応をし始めているし、
その対応がもたらすあらたな利便性にも気づいてしまったわけで、もう、この流れはとめられないとおもう。
 

 
人々の働き方は変わり始めているし、
場としての会社が従来の形をうしなえば、〇〇ハラスメントとかの、場が支配する悪習も解消され、
1人1人が個室のなかで世界に向き合えるようになって、従来のいろんな制限や壁が取っ払われて、
 
個人がよりよく生きるということにおいて、学歴はいっそう関係なくなっていくかもしれない。
 
学校においても、
今回、通信環境の格差が浮き彫りになったせいで、タブレットなどのハード面が急速に整備されていくだろうし、
そうすれば、個人的な学びの遅れとか欠席者とかのフォローを、リモート指導する日も近いだろうし、
 
また、そういう方向は、不登校だったり、特別な支援が必要だったりする子供にとっては、歓迎すべきものかもしれない。
 

 
そして学びというものは、今後、どんどん、選択可能な、個人的なおこないになっていくんじゃないだろうか。
いずれは義務教育期間の教室=学び舎という概念さえ、崩れてゆくかもしれない、
 
(というか私は、学びとはもっと個人的なリズムと選択で行ったほうが効率が良いのではないかと思っている。だからそういうあたらしい流れに、あんまり抵抗はない)
 
そしていつかは、
「昔はみんな学校に一々集まってたんだって」「まじかよ! 大変じゃん」
みたいな会話がされるかもしれない。
 
そんな時代にはやろうと思えば家でなんでもできるようになっていて、
直接会うことは、特別な儀式めいたおこないになっているかも。
(で、恋人同志の「会おうか」が「Hしよーか」の隠語になっているかも(笑))
 
いま子供をやっている世代は、そんなことが起こっているかもしれないあたらしい社会の担い手なんだとおもう。
 
もちろんそれは単純なユートピアではなくて、
今では考えられないような、いろんな問題も含んだ社会だろうと思うけれど。
 
 
今回、自粛期間中の、社会の経済活動がとどこおった状況の中で、
 
完全に引きこもって騒動をやり過ごした人、
いかんともしがたい現状を悲観するしかなかった人、
政策への批判を発信していた人、
 
いろんな人がいたけれど、
 
私はそんな中で、
たくましく新しい発想で新しいニッチな産業を興した人や、
たいへんなめに会っている多くの人のためにてきぱきと立ち回る人のうごきに、すごく魅了された。
 
そのなかで、一番笑ってしまったのがこれ↓。
こういう発想力、素晴らしいと思う(*^_^*)

 
彼らはすごくタフだ。
考えが柔軟で、決断力と行動力があり、失敗を恐れず、まわりに勇気と恩恵をもたらす。
 
そして思った、
願わくば、子供たちにも、こんなふうになってもらいたいな。
社会の危機を前に、われ関せずを決め込む人間にはなってほしくない。
 
 
だからいま、学校には、
「かつての通常」を取り戻すためだけに授業時間を費やすのではなくて、
いろんな先生、たとえば社会や理科の先生にも、もっともっと自由な権限をもっていただいて、
 
コロナ禍を主題に、
この三か月で私たちの世界に一体何が起こったのか、
その渦中でどんな人達がどんなことをしたのか振り返ったり、
これから世界がどんな変化を見せていくのか、その青写真を子供たちと一緒に描いていただきたい、
 
そして子供たちに自分の視点で未来を見据える力を養ってもらいたいなあとおもうのだ。
 

 
教育が現実から引きこもっていてはいけない。
それは地続きであるべきなのだから。
 
これからも社会にはいろんなことがおこる。
私たちは常に、いろんな意味でかつてない世界を生きていて、
常に、かつてないことにさらされる可能性があるわけで、
 
その、そら恐ろしくもいとしい現実という地平の歩き方を教えるのが学校教育であってほしい、
そう強く思う今日この頃です。




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